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2003年5月14日 ◆ 「気付く気付かないを超えて」 −フリー対局−
「君は念力で勝ってる」と言われることがある。すなわち、こちらが間違えた、変な手を打っても、相手が勘違いしてその手を咎め損ね、そのおかげで勝っていることが多い、と。
確かに。隅の死活を例にとっても、十分な知識のない私は「こんな手どうだろう? わかんないからやってみよう」という手を打つことが多い。本来は「こう打ち進めていけば自分が得をする」としっかり読んでから着手する必要があるのだろうけれど、つい勢いで打つことも多い。
そんな私が言うのもなんだが。
「相手がこの手に気付かなければ自分が得をする」ということをベースに、碁を打つ人が多い。ハッピー・マンデー教室でも、相手が一手入れ間違えれば自分の石が生きることができるという手を打ち、あとは相手が間違えることを祈るというスタンスの人がいる。
「読み」ができない以上、「運・不運」に賭けてみるのも、ある意味で仕方のないことだし、「ゲーム」として考えればそれが楽しいという人がいるのも頷ける。しかし、「運・不運」に賭ける碁を打っていれば、上達速度は大いに遅くなる。あるいは全く成長しないうちに碁が嫌になってしまう。
「囲碁は感性の競技」と言われることがある。しかし(何でもそうだが)「感性」に基づく着手を支えるのは「手筋」などの理論。理論の裏付けがあってはじめて「感性」的な着手が意味を持つ。そしてその理論(棋理、と言われる)は「必然」のものだ。さらにその知識は碁を勉強する人、万人のもの。
自分が気付く最適な手というのは、相手も必ず気付く。碁を打つときにはそのことを前提に打つべきだと思う。
自分は相手の大模様の中に入って、なんとか「生き」を勝ち取りたい。そのためにはどのような形でシノギを打てば、相手の「的確な」応手にも耐えて生きることができるか。それを考えるのが「囲碁の技術」であって、「なんか相手が間違えればラッキーだし」というのは囲碁ではなかろう。
偉そうに言っているけれど、「初心者向け」の教室に通い、そして何人も「勘違い君」を見てきた。そしてその人たちは、成長せずに囲碁を諦めることとなった。
この4月に教室に通い始めた人たちも、そろそろ「対局」が面白くなってきた頃。ここで「対局」の中のどこに面白さを見つけるかで、今後も囲碁を楽しむことができるか、それとも時間の無駄で終わるのかが決まる。
ぜひとも「囲碁の楽しさ」を多くの人に感じて貰いたいと思っている。
硬めの話の後でなんだが(苦笑)。
弟子達の間でも話題になっている、5月くらいから教室に入ってきた「超美人」(笑)とお話しする機会あった。前々からの生徒さんと19路盤を打っていた姿をちらと見た。ちょうど終局間際で、大きな手が残っていたのだが、双方気付かずに終局。
終局後に見ているとその「超美人」さんの整地がやけにうまい。自慢ではないけれど、私がそれなりにキレイに整地ができるようになったのはここ2、3ヶ月のこと。覚えたての人がこんなにキレイに整地ができるのはなんだかな、と感じた私はつい声をかけてしまった(超美人だから声をかけたんじゃない、と言い訳してる…)。
「前からどこかで打っていたんですか?」。私の問いに彼女は「いいえ。教室で教わったんです」と。講義の時、しばらくは「初心者組」と「経験者組」にわけて講義していたことがあった。その頃に初心者組で整地を教わったらしい。
ふ〜む。経験者組の多くの人よりも整地が上手だった。
まあ整地のうまい・へたと棋力にはあまり関連はないかもしれないけれど。でも整地が上手だと「うまく見える」ということはある(笑)。彼女の整地を見せて貰うためにも一度手合わせを願っても良いかもしれないよ>弟子たち(笑)。
え〜と、後半部分は。弟子たちの間でも大評判の新入生と、真っ先に話をしたんだよ、という「師匠の自慢話」ではありました。ふ。
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