2005年01月22日

次の一手が解けなくなるとき

私が先日書いた「逃げたり取ったり」の記事に言及した「『次の一手』不要論」という記事を見かけました。

先方の記事における論旨はともかく、私の記事の方、書き方が半端で誤解を与えてしまっていたかもしれない。

私は元記事の方で、「次の一手がぜんぜん解けなくなることもある」として以下のように書きました。

碁って、覚えてすぐはとにかく石を取られることが嫌いで地が好き。だから「次の一手」なんかもとにかく地を取るところに目が行きがち。それから次第に「バランス」を考えるようになって、それからさらに「厚み」なんていう難しいことを覚え始める。で、そんな中で趙治勲や張栩の打ち碁を見てまた地に辛くなったり。
そういう揺れの中で「次の一手」で全然正解が出せなくなることはあり得ます。あり得るというか私も通った道です(^^)。

私は、この記事によって「よって次の一手問題というのは曖昧なものだ」ということを書いたわけではないんですね。

問題集に載っている問題というのは、さすがによく考えられていて(まあ何事にも例外はあるけど)、私ごときの好みによっては変化しない「絶対の一手」が回答になるシーンが選ばれている。それなのにこちらの「好み」によって回答を間違えてしまうのは、自分の「バランス」が壊れてしまっているということが本旨です。よって問題集をやって、バランスの崩壊を矯正することが必要になると。

確かに序盤・中盤の次の一手が、詰碁における次の一手のように「それしかあり得ない」というものではない。敢えて盤上のバランスを崩すことを選択する場合もあるでしょう。でもバランスを「崩す」と「崩してしまう」は似て非なるもの。自ら「バランス」の判断ができないうちには、バランスを崩すことの善悪判断もできない。

私レベルでは、なかなかそんな高度なバランス判断はできません。だから問題集をやって「あ、そうだったな」と思う。「今、ちょっと私の碁のバランスが崩れてしまってるな」と反省するわけです。

「どこに打っても一局」とか「構想は自由であるべきだ」と、五段の人が言うならば私は同意します。でも棋力の低い私にはそうは打てない。そして入門者たちが「構想は自由であるべき」というとき、私はむしろ基礎を蔑ろにする傲慢にいたる危険を感じてしまいます。

ちなみに。

私の弟子が、私の「それはないね」に対して「え〜、もっと自由に打ちたい」なんて言うとそれだけで破門になってしまいます(苦笑)。

投稿者 前田博明 : 2005年01月22日 09:00 | トラックバック