私がとっても偉そうなのは有名な話(笑)。そして偉そうに指導してたりするのも有名な話。それを見て、プロ棋士が「前田さんの指導で弱くなるんじゃないの?」なんて言うのもまた有名な話(爆)。
私の指導方針は、とにかく私がつまらないところで悩んだところをスイスイ通り抜けて欲しいというもの。私は碁を打ち始めた頃「こんな手あるのかなぁ〜?」と迷って、なかなか碁が打てませんでした。あるならあるで、その後をどう打つのが一般的なのかわかんなくて、また迷って結局打てなかった^^。そういうつまらないところの悩みを減らすためにたくさん棋書を買って読んでいたんですよね。
たとえば上の図の実戦。日本棋院級で3〜5級程度の人が黒を持っているならば、私は打ち直させます。まず黒5がすごく珍しい。なんでそこに打ったのかを問いただします。3〜5級程度なら「まずカカリかなと思って」とか、「ここ全部まとめられたら大きいかと思って」という答えが返ってくるんでしょう。
でもそういう発想は上達を妨げる「ヤキモチ」に繋がりそうだし、自分の既着手を生かしての「厚みで打つ」なんて発想ができなくなっちゃう。
まあ勉強熱心な人なら、左下にカカル前に相手の様子を見ましたなんて言うかもしれない。それならばそのまま打ってもらいます。「でもその手はあまり見ないよ」と伝えてからですけどね。
黒7はもちろん「ある」手でしょうが、黒5と「ちょっと変わった手」を打ってしまったので、三々に振り替わって先手を取り、しして左下にかかって「あなたの左辺そんなに大きくなりませんでしたね?」なんていう発想もあり得ることを伝えます。黒11は定石外れなので「定石では」を伝えます。
黒13は、黒15を打つ石の調子を求めたんでしょうが、でも白13とかわっては、右上隅を傷めてしまってることを伝えます。
前に何度も書いたんだけど、囲碁というのはすごく歴史のある文化。するとそこには当然「型」とかがあるんですよね。そういう「型」がわからないで碁を打つのは、凄く不安だし、それにいつまでも我流を抜け出せずに尊敬するウワテに認めて貰えない。
なんか話が変わるけど、以前「茶会」に誘われたことがあったんですよ。私は「茶会での振る舞い方を教えてくれ」と言ったんです。すると誘ってくれた方は「自然に」と。
確かに。「型」というのは「特殊」なことをさせるために生まれたんじゃないんですよね。「自然」な流れを産み出すために生まれたもの。しかし、「茶」の文化に全くなじみのない私は、その「自然」な流れに乗っかることができない。もしかしたら入り口から座る場所への移動は「何歩以内」という規則があるかもしれない。右足から動き出したら周囲が凍ってしまうなんてルールもあるかもしれない。知らない私は「なんでそんな規則があるんだよ!」と謎に思ってしまうけど、それも長い文化の中で「自然」を産み出すために考案されてきた規則に違いない。
碁もやはり。そういう「茶」みたいなところはあるんですよね。どう打つのがもっとも「自然」なのかという「流れ」がある。
私はそういう「流れ」がわからずに、なんかうだうだ悩んだり恥をかいたりしてきました^^。いろいろ本を読んで勉強して、そして「棋理」ってのをいろいろ知るようになって、「棋理」の示す「自然さ」と、私が「打ちたい」と思うところの不一致に大いに悩みました^^。
ある時。「うん、別に負けたっていいじゃん。とにかく棋理に従って打ってみよう」と、いくつも持っているネット碁アカウントのひとつで打ち始めたんですよね。平行して「徹底して棋理に反してみよう」という碁も別アカウントで打ち始めて(それは今でもしばしばやってます)。
すると面白いことに、「棋理に従えばこっちだけど、ここは場合の手ってもんじゃないのか?」と思って打つ碁はたいてい後で悪くなってくる。「なんか悔しいけど棋理に従って打ってみよう」と思った碁は思わぬ大勝になってランクもぐんぐん上がっていく。もちろんウワテからの評価も急上昇(^^)。
そうなってくると改めて囲碁の面白さがわかってくるし、たとえば上図の黒5なんてのを打つときの「考え方」が生まれてくるんですよね(私は黒5を打ちませんが)。見える世界が五倍も十倍も違う。
私はなるべく良いコストパフォーマンスで、私に見えるものくらいは見えるようになってもらいたいと思ってるんです(^^)。その方が絶対深い世界を楽しむことができる。
もちろん。上図の黒5を打っただけであーだこーだ言われたくないって人もたくさんいます^^。終局まで打って、そしてどっちが勝ってるのかを見比べるのが碁だと思えば別に黒5だってどーこー言われるような手じゃないかもしれない(勝ちにくくはなりますけど)。
でも碁って。勝ち負けだけを争ってたら、当然のごとくウワテには勝てないんですよね。まあそのウワテを抜いていくってことはあるけど、遙かなる高みには「プロ棋士」がいるわけでしょう。コストパフォーマンスの問題もあるわけだから、「プロに勝てるようになりたい」なんて思って碁を打つ人はほとんどいないわけですよね。と、いうことはいつまでも自分は「シタテ」だということ。
そうすると、囲碁の楽しみの大きな部分ってのは「碁を理解すること」だと思ってるんですよね、私。そして「ちょっと理解できてきたかな」と思ったら日本棋院初段くらいにはなってる。「おお、結構世界が広がってきたぞ」と思えば日本棋院三段くらいになってる。
そして周囲を見渡すと、囲碁ってのは大勢が支えてきた文化だから、「宝物」があちこちに転がってることに気付くんですよね(^^)。。
そういう「宝物」を見たいと言う弟子たちに囲まれて、だんだんと趣味が囲碁ではなく、「囲碁好きな弟子のことを考えること」になってきてたりします(苦笑)。
何か盛り上がってる中に入り込むのは勇気がいりますが、別の話を持ち込んでちょっとの覗かせていただきます。[自然に」に反応して。
初めて(たぶん)こちらに伺わせていただきました。お茶を長い事さぼりながらも続けているのですが、長くやればやる程、茶道というのが「もてなす自然な姿」「もてなされる自然な姿」がひとつの空間を構成して時間が心地よく流れて行くのだなと感じています。茶道の作法はよく『堅苦しい」と言われますがその所作の順序はすべて合理的に美しく、相手を思いやり、高価な道具を大事にする、すなわち道具をつくった方に敬意を表し、万が一でも落とさないような道具の見方だとか、扱い方を「型」にしています。長年改良され、ケースバイケースに対してもかなり決まっています。でもそれは「決められた事」というより、そうした方が良いのではないか?という事を先人達が「型」にしてくれたわけです。はじめは「型として」理由もわからないまま一連をマスターしても、それなりにカッコがついてくるのですが、それだけではまだ「自然さ」は身に付いてるのではないと思っています。その所作の稽古を繰りかえしていくと、一連の動きを納得できるときあるんですね。なるほど。。。って。そうすると、所作の連携に滑らかさがでてくる。なんて、人の事をみてるとよくわかるんですがね〜、自分はまだまだです。「自然」を目指して。話がばらけてますね。あ。囲碁のサイトですのにすみません。
PIKA さん、コメントありがと〜(^^)。
茶道のことはよく(あ、ごめんなさい、全然でした^^)わからないので不適切なこと言ってなかろうかと不安に思ったりもしてたんですよ^^。
私を茶会に誘ってくれた人が「自然」ってあまり言うもんで、当時は自分で本を買ったりして調べたんですよ^^。で、その誘ってくれた人に「これこれこういう決まりについて」とか質問すると「いや、その場にいると、そう行動するしかないはずだから」と(大笑)。いや、その人がいぢわるだったわけじゃなく、本当に「型」が身に付いていればそうなんでしょうね。
碁の話から外れついでに。
私、中学の頃バレーボール部(6人制)だったんですよね。で、6人制のバレーってフォーメーションでぐるぐる動き回るわけですよ。初めて試合に出たときは先輩に「邪魔だ」と蹴飛ばされたりしたなぁ^^。
「自然な動きを」と言うと、当時のその蹴飛ばされたことをよく思い出します^^。
Posted by: まえだ : 2005年04月07日 23:00