2002年11月27日

「リベンジ!?」 −フリー対局−

フリー対局の日。今日は客先から直接棋院に行った。はやく着きすぎてしまって誰もいない。待つことしばらくで先週嵌め手に騙されまくった女性がやってきた。

「さ。打ちましょう」。「え、私着いて早々休憩もできないんですか?」。「だって二人しかいないんだから打とうよ」。

そんな流れでかわいそうな彼女は休憩する間もなく対局することになってしまった。

先週の結果もあるし、石を置きたそうにする彼女。「そんなに実力の差はないよ」と説得する私。「石を置くとまた先週みたいに嵌め手が炸裂しちゃうよ」と脅す私(笑)。

結局は彼女の先番ということで対局開始。

こんな初心者の私が言うのもなんだが、彼女の弱点がいくつか分かった気がする。

* 相手に攻められると、守ることのみ意識が行ってしまう
* 自分が有利な局面でも相手の模様に入っていくことを躊躇う
* ひとつの攻撃が失敗すると、大混乱になり間違いを繰り返す

こういうのも失礼だけれど、なんだかかわいい(笑)。

手筋の面では私と実力は変わらないと思う。でもこちらが攻撃に出るととたんにその局面だけしか見えなくなるようなのだ。私はずぶとい方なので良くわからないのだけれども、これは気持ちの持ち方ひとつですぐに修正できるんじゃないだろうか。

攻められたとき、守ることのみを意識するのではなく、むしろ相手の弱点を探してみる。碁は順番に黒白打ち合うわけだから、普通はどちらか一方が圧倒的によくなることはないはず。相手の一方的攻撃チャンスに見えるときでも、冷静に盤面を眺めれば相手の弱点を突けば相手の攻撃をかわすことができるケースも少なくない。

まあこれも「盤面を見る能力」と言うこともでき、それはすなわち私と彼女の間の実力差であるということもできる。しかし、あくまでも私たちは初級者レベル。何も難しい局面判断を競っているのではなく、極端に言えばアタリを見逃すか否かというレベル。こんなのは「実力差」とは言わない。

「落ち着いて、そして積極的に」。彼女はこのことさえ気にしていれば私レベルとは互角に打てるはずだ。

で、彼女は日曜日に会社の方を訪問して囲碁の相手をしてくれるそうだ。「いやいや互角ですよ」とかなんとか言いつつも、私だって弱くありたいわけじゃない。負けないようにお勉強しておこう(笑)。

弟子は囲碁を始めて1ヶ月弱くらいの高校生と対戦。この高校生、結構囲碁にはまったらしく、あっという間に強くなってきている。高校生の黒盤(コミ無し)で対局して、弟子のミスもあって10目ほど高校生が勝ったそうだ。

それにしてもどうして若い方が進歩がはやいんだろうなぁ。中学生くらいで囲碁を始めて弱いまま終わるという人を、少なくとも私は見たことがない。いましばらくの間はこの高校生に勝っていたいものだと思う(笑)。

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2002年11月25日

「定石」 −講義−

講義は「定石」。

囲碁の世界には、「定石を覚えて二目、弱くなり」なんて言葉があるらしい。

「定石」とは、これまでの囲碁の歴史の中から、「双方ともにこの通りに打てば基本的に互角の展開になる」ということを示す序盤の手筋のこと。よく勘違いしている人がいるが、「序盤は必ずこう打つ」というモノとはちょっと違う。同じような位置にても定石の数は無数(無数、ではなかろうが、非常に多くある)にあり、中盤戦への狙いを持って、いかなる定石を採用するか、あるいは定石の途中で手を抜くか、さらには定石からどのように変化させながら手を進めていくかということを考えなければならない。

すなわち、「序盤の打ち方は決まっているので面白くない」というように思い込んでいる人。それは間違いだ。

で、定石を覚えて弱くなるように思えるのはなぜか。それはつまり、相手に定石から外れた手筋を打たれると、それにうまく応じることができないということが大きい。先にも書いたように、定石とは基本的に黒も白も互角の展開になるための手筋。その筋を外れれば基本的に外した側が不利になるべき。しかし素人碁では応手を間違えてしまい、定石を外した側が圧倒的に有利になることも多い(俗に言う無理手)。

このような失敗をなくすためには、定石における石の「形」のみを覚えるのではなく、それぞれの石の「働き」を理解する必要がある。そして相手が「無理手」を打ってきたときには、自分の石と相手の石の「働き方」を判断し、正しい応手を打つ。

ま、こんなことは言うはやさしいが実戦は難しい。私にはそんなことは一切できない。お互いに定石を外し、外した中で有利にも不利にもならず、なんとなくゲームが展開する。経験を積めば定石外しを咎めることができるようになるんだろう。

対局。

今日は対局の話はあまり書きたくない。初めて対戦する女性が相手だったのだけれど、序盤戦はこちらが圧倒していた。相手の方は結構無駄な手が多く、それで気を抜いてしまった。これは失礼なことだし、それによって結果も悪くなる。結局は隅の大石に対する相手の攻撃を許してしまい、大石を取られた。自分も下手なくせに、相手のレベルを勝手に判断するなどとおこがましいことをしてしまった当然の結果だっただろう。

弟子。今日は弟子の対局は見ていない。最近少し進歩した私に四子局でも惨敗するようになってしまい、やや落ち込んでいる様子。布石(めいたもの)を交換してからの打ち方がよくわからないとも言っていた。ふむ。でもそれはみんなが通る道。

最初は全体のバランスだとか連携など考えずに「ここを守る」「ここを攻める」と、局面的なことを考えて打っていれば良いのだと思う。そのうちに盤面全体のバランス感覚が身に付いてくる。頑張れよ>弟子。

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2002年11月20日

「嵌め手」 −フリー対局−

フリー対局の日。本日は参加者やや少なく、弟子と四子局で打っていた。そこに、弟子の相手として適当な相手がやってきたので観戦に回る。いろんな人の手を見ているうちに手空きになった人が出たのでその人と対局。

相手の方は弟子よりやや上手の人。ちょっと相手の石音に反応しすぎるところがあるけれど、まあ悪い打ち手じゃない。で、はじめようとするとおもむろに石を置く。「え、置き碁ですか?」。「ええ、三子局で」。ふ〜む、本当の実力で言えば三子も離れてないと思うんだけれども。二子でならちゃんとした碁での勝負で良いところか。三子置かせるとこちらはやや相手を驚かせる手で応ぜざるを得なくなる…

結局「じゃんけん」で彼女が勝ち三子局。いくつか石を交換したところで、やはり嵌め手を打たねば勝負になるまいと判断。強くなってきた弟子を相手に嵌め手は鍛えているので(笑)、私の得意とするところだ(苦笑)。

で、結局。嵌め手に見事なまでにはまる彼女を前に完勝。後半は完全に自分の応手に自信をなくした彼女。完全に無理な挟みツケの連打に手もなく隅を奪われた。

「私、騙されてます? ねぇ、騙されてます?」。そう、騙されてる。でも碁の打ち方を知ってる人に三子置かせると、私レベルだと嵌め手で応じないと勝負にならない。「ええ、あそこの手は下がってるだけで完全にあなたの地にすることができたんですけどね」、と私。

「そっか〜。やっぱ社長なんかやってる人は人を騙せないとだめか」。

あっはっは。それはねーだろって。

ひとまず休憩して今度は四子局。まずは右下の攻防となり、私は嵌め手の上を行く無理手で攻める。前局で私に騙されまくった彼女は混乱の極み。石の形を見て「なんだか変だな?」と思ってはいるらしいけれど、なんとなく私の悪手が「手」に見えてしまうらしい。かわいそうに彼女は種石となる三子を囲まれ、結局五子にして取られてしまった。

通りかかった講師の方に彼女は聞く。「ここからどうすれば良いんですか?」。講師の方曰く「え、そこの石、取られてしまったんですか?」。「そうなんです。だからどうするのが最善なんですか!」。講師の方は冷たく言い放つ。

「投了でしょう」。

かわいそうにそこで彼女は投了となった。四子置いた左辺の二子は、近くに石を打たれることもなかった。

彼女もたまにこのページを見てくれるそうだから書いておく。昨日の「碁」で自信をなくす必要は全くない。嵌め手には正しく応じれば絶対に自分が勝てるはず。だから普通の対局ではあんなつまらない「嵌め手」を打たれることなどないはずなんだ。「嵌め手」は打つ側が馬鹿。それに応じられないからといって、囲碁の力が劣っているということにはならない。

まあ昨日の対局から学ぶことがあるとするならば、「嵌め手には必ず無理な形がある」ということ。昨日私が繰り出したさまざまな悪形を覚えておいて、その無理を咎める勉強はすればいいだろう。それにより中盤の紛れにも強くなるはずだ。

参考までに言っておくと、昨日彼女が最初に対戦した相手(中学生)は私より数段上手。彼女は二子置いて一応最後まで打ち切ったらしい。で、その相手に私は二子置いて負ける(彼が気を抜けば勝つ(笑))。「ちゃんとした碁」を打てば、そのくらいに勝負にはなるはずなのだ。私に四子置いて負けたということは、それは私の手がほとんど全て「嵌め手」で構成されていたということ。

あくまでも「ゲーム」として打った碁だったので、あんなことで自信をなくしたりしないで欲しい。

弟子。

以前、弟子が二子置かせて勝負した相手との再戦だった。中盤を見ると、弟子の大石がほぼ死んでいる。「どうしたんだ」と問えば、なんとなく相手のキリに応じているうちにそんな形になってしまったらしい。完敗の情勢だ。ただ、望みは弟子の死に石を復活させる手筋が残っていること。「打ち込み」が必要なので、おそらく気付きにくいところなんだが、「やってみよー」なんて偶然そこに打ち込めば弟子の圧勝となる。

結局。弟子はやはりその「打ち込み」の筋には気付けず、自分の石は死んでしまった。ただなんとなく「その辺り」には拘っていた様子が見えた。すなわち「この形は何か手がありそう」なんて思ったのかもしれない。そういう感覚が非常に大事。「手がありそう」な形に拘っているうちにいろいろとわかってくる。

ただ、そこの大石の復活がなければ相手の完勝と見えた勝負も終わってみれば六目程度の差だったらしい。どうやら弟子がキリ進むうちに隅への侵入を許してしまったらしい。もしかして弟子も師匠に似て「嵌め手」を操るようになったのか(笑)?

弟子の対局相手の方は終局後、講師の方に「私の級位、上がりませんか?」と問う。講師の方の見立てでは、相手の方は厳し目に見て19級くらいらしい。と、いうことは弟子は16〜17級? 強くなったじゃないか>弟子。そのうちに私の「嵌め手」をびしびしと咎めてみてくれ。

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2002年11月18日

「ルーマニア人との対戦」 −講義−

講義は「五子局での打ち方」。強い相手と対戦する際、自分が石を置かせてもらっていかに戦うかという内容だった。

そう。一般に五子置けば非常に大きなハンディとなる。しかし私などの場合は、最初九路盤で打ち始め、そして十三路、十九路と移っていった。一般に盤が小さい方が上手・下手の差が出にくい(そもそも囲える地が少ないのだから当然だ)。したがって私は石を置いて戦った経験がほとんどない。だから置石をしてもどのように戦っていけば良いのかわかりにくいのだ。

今にして思えば、強い相手に石を置いて勉強するのは非常に良いことだと感じる。つまり「大場の大切さ」や、「模様の働かせ方」などを勉強することができる。今後、石を置く機会があれば積極的に打ってみたいと思っている。

対局。

今日はなんとルーマニア人女性との対局だった。ハッピーマンデー囲碁講座講師のハンス・ピーチ先生がドイツ人であることもあって、ヨーロッパに知己が多い様子。この日は外国のゲストもたくさんいて、やけにインターナショナルな教室だった。そういうときこそ「手談」の魅力を感じる人もいることだろう。

で、私の話に戻る。

相手の女性は日本で言えば段位者程度の実力らしい。大きに石を置かせてもらっての対局だったのだが、敢え無く中押しで負け。相手が地にしたがっているところをどこまで守れば良いのか判断に苦しんだのが一番の敗因。また、私が手を抜いたところが争いの焦点になってきたので、そこで紛れを求めて石を置いてみたのだが、さすがに段位クラスの実力を持っていると「間違い」をおかさない。相手が一手間違えれば私の大石が復活ということになって勝負はわからなかったが、さすがに「相手のミスを求める打ち方」ではいけないのだ。

段位クラスの実力を持つとはどういうことか、ということが大いに勉強になった一局だった。「No way ?」との私の質問に彼女が頷いて終局となった。

弟子、だ。弟子は上手を相手に先番で打っていた。東北大学に留学中のルーマニア人男性がいろいろとアドバイスしたりしていたので、私はあまり見ていなかったのだが、結局2戦して2敗。いずれも20〜30目の差だったようだ。うん。相手の上手とは私も打ったことがある。だいたいその程度の差だろう。

弟子に最近言っていることは、「逃げるときは足早に」ということ。それから「石の弾力」ということ。弟子は相手に封鎖されそうになると、ひたすら石を固めて守ろうとする。固まってしまった石は「ダンゴ」と呼ばれ、悪形とされる。上手は一子の働きを最大限に活用するために、石が固まることを嫌う。また、固まった上に眼形の確保もできなければ、大石にして取られてしまう。

「いいか、逃げるときは一間で足早に」。相手の石が迫ってきているときに一間で逃げていくのはやや怖さを感じることもある。しかし、くっつけて打っていては他の石との連絡もできず、眼形も確保できない。思い切って一間で逃げていかなくては活路は見出せないのだ。

ちなみに「石の弾力」とはいろんなケースで使われるようだが、基本的に「眼形を意識した形」というような意味で使われることが多いようだ。ときには「コウ」も意識しながら石に弾力を持たせる。そして足早に逃げる。

弟子がその辺りを覚えれば、二子で私に勝てるようになるかもしれない。それを覚えた後には攻めの手筋。碁の本にはよく書かれているけれど、攻める時には「モタレの手筋」のような「勇気のいる手筋」がいろいろとある。もちろん理にかなった打ち方なのだが、実戦で活用するにはやや勇気がいる。

そこまで意識できるようになれば、二子の私には勝てるようになるだろう。そう、その手筋を覚えれば、ではない。攻めるときに必要な「ちょっとした勇気」。これを意識するだけで打ち筋は随分と変わってくるのだ。

ま、あまり早々に追いつかれても面白くない。師匠の特権でじわじわと教えていくことにしよう(笑)。頑張れよ>弟子。

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2002年11月13日

「三昧郷へ」 −フリー対局−

楽しい。これまでの短い経験の中で、囲碁を打つのをこれほど楽しく感じている時期はない。

たとえば「考える」こと。上級者は何手も先を読み、そして着手する。私のような低級者にそのような高度な技は使えない。低級者が着手に時間をかける場合、たいていは「こんな着手はおかしいのではないだろうか」ということを考えている。私も1週間前までそうだった。しかし今、ようやくいくつかの可能性ある着手から、戦略に応じて手筋を選択できるようになりつつある。無駄に考慮時間を使わなくなってきた。これが実感できるのはとても楽しい。

本日のフリー対局は、はるか上手の中学生。最初二子で負け。次に同じく二子で、自陣深くに入り込んだ相手の四子を殺す絶妙のノゾキをアドバイスしてもらって勝ち。次には気分を変えて十三路盤。相手の中学生が死活を勘違いして手抜きしたところを殺して勝ち。

「小さい盤は苦手です」というので、次は九路盤にして(笑)、相手の見損じを咎めて三子取って中押し。相手が「やっぱり十九路でもう一局」というので、「もう時間も遅いからハンデ戦で」ということで強引に四子置いた(笑)。落ち着いて打てば四子でも中学生に勝ちがあったかもしれないが、私とて先週1週間で八子実力を伸ばしている。ぽんぽんと打ち合ううちに大勝。

キリ、ノゾキ、オキ、ハネを効果的に打てるようになってきた。これは弟子に四子置かせて打っていた経験にもよる。これまでに読んできた多くの囲碁本で得た表面的な知識が徐々に身になってきているように感じる。

ウェブ上にある級位認定問題(手筋、死活等)ではたいてい一桁級の正答率をあげられるようになった。ま、問題集を解くのと対局とはぜんぜん別物で、実力的にはまだまだ二桁級ではあるけれど(囲碁の級は30級からある)。

ちなみに、いつものように弟子の話。

応手がすごく上手になってきた。うっかりすると十三路盤を先(セン:黒番でコミなし)で打って師匠を圧倒することもある。十九路でも四子だと、こちらが強引に勝ちを狙うことはできなくなった(三子でも打ってみたが、もはや二子程度で十分だと思われる)。アタリを見逃すチョンボは相変わらずだが、こちらの「狙い」を的確に判断して、狙いを外す応手を打つ。ちょっと上手になりすぎて師匠としては嬉しい反面悔しさもある。「やっぱり青は藍より出でて、ですよね」とか言われないように頑張らなくては。

ちなみに本日のフリー対局では、なんと弟子が二子置かせて対局していた(もちろん講師の方の指示による)。私ですら相手に置かせた経験はほとんどない。講師の方々はいちはやく「やっぱり青は藍より出でて」とか思っているのかもしれない(涙)。結果は1勝1敗だったそうだ。

今後も弟子が(生意気にも)石を置かせて打つことがあるのかもしれず、参考までに書いておく。相手に石を置かせる場合、「応手」の巧拙はあまり問題にならない。相手に先手を取られれば、置き碁は必ず負ける。自分が先手を取って相手を攻め立てる構想力、攻撃力が必要になってくる。

しかしまあ。弟子がそんな技を身に付けたらもはや私では師匠がつとまらなくなってしまうだろう。「ほどほどに」頑張れよ>弟子。

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2002年11月11日

「1週間で8目」 −講義−

「私のことばかりじゃなくて、自分のこと書けばいーじゃないですか」と、弟子に言われた。

しょうがないじゃないか。師匠はあまりの不調で自分のことを書く気力がまったくなかったのだ。しかし。これはもう声を大にして言って良いだろう。「復活」だ。

「ハッピーマンデー」の講座での先週の講義内容は「大場」。それがきっかけになったような気がする。

最初、私は「模様」に打ち込まれることすら耐えられない感じだった。模様に打ち込まれてしまうとそのままずるずると大敗を喫した。そこから、やや石を固めて打つようになってしまった。そして「地」にする予定で囲い始めたところは、たとえ1目といえども相手には与えないという打ち方をしていた。

こんな打ち方をしていて上手に勝てるわけもない。私は敗因がつかめず「戦い方」が悪いのかと、戦い方の本を何冊も読んでみた。しかし出題される手筋の問題には結構良い感じで正解が出せる。ひとつの局面の中での問題ではなく、もっと全体的な問題のようだと自己分析した。

しかし。この自己分析が即座に「大場」の考え方とリンクしたわけじゃない。「全体的な問題」とはすなわち、碁を打つのに向いているかどうかという問題なのではないかと考え、碁を完全に諦めようかとも思った。しかし囲碁番組を見るのは面白いし、碁もまだまだ奥が深そう。やめてしまうのはもったいないことだとも考えていた。

そうしてモンモンとしているうちに、先週の授業に出会ったわけだ。

「模様は言うに及ばず、地にする予定で囲い始めたところで二、三目失うことはぜんぜんたいしたことじゃない」。「大場」と呼ばれる場所に先着すれば、1手で十目程度の地を自分のものとすることができる。

もちろん、地にする予定で囲い始めたところを、完全に殺されてしまっては元も子もない(大場より急場)。しかし生きが確定したならば、次の場所に手を進めるべきだったんだ。

このことを、本当に心の底から理解した。そのことに気付くまで40目差で負けることもあったコンピュータゲームで、たいてい40目程度の差で勝利するようになった。差し引き80目、地を囲えるようになったわけだ。置き碁に換算すれば8目の成長。今回の成長は確かな手ごたえを感じる成長だと思っている(そんなことを言いつつまた不調になったらどうしよう…)。

ちなみに。昨日の講義の後の対戦は、私が二子置かせてもらって強い人との対戦。相手のミスもあったが持碁(引き分け)に持ち込むことができた。自分で感じている「手ごたえ」がまやかしでないことを感じた一局だった。弟子も十九路で大勝したとのこと。最近の私の復活のせいで、一緒に打つときは大負けを食らわされている弟子。しかし君の実力も間違いなく上がっているのだ>弟子。

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2002年11月04日

「大場」 −講義−

新しい月に入った。すなわち、弟子が囲碁を始めて1ヶ月経ったということ。

現在の弟子の状況は十九路で形を覚え、私とは四子で打っている。まだ「ちょんぼ」があるので私に大石を取られたり隅を殺されたりするのだが、打ち筋はわりと良い感じ。こちらが陰険に隅を殺しに行かなければたまには四子で私に勝てることもある。やっぱり教えてくれる人がそばにいるのは良いことだ。

と、いうわけで私にも教えてくれる人募集中。中学生・高校生のアルバイトにどうかな?>全国の中高生。

今日の講義はプロの最初の20手程度を参考にして「大場」への進み方。何度も書いているけれど、囲碁では隅に地を作るのが一番効率的で、続いて辺、そして中央の順番。で、一般的に星のある場所(下図で石の置いてある場所)を一般的に大場と言う。

大場の打ち合い

図は黒白順番に、いわゆる「大場」を占めた図。隅と辺を効率的に守りつつ、中央への進出も見ているという感じ。

もちろん星の辺りに石を置いてもまだまだそこが地になるというわけではないけれど、攻守の「バランス」を考えるともっとも効率的な場所ということになる。

私も含めた囲碁初心者にとって、この「バランス」がなかなかマスターできない難物。布石の本などを読んで、効率的な布石をマスターしても、自分の石を攻められるとついそれに応じてしまう。

本当は、相手の石に応じるか否かは、相手の攻めによって失う地合と、他の大場に先着することによって得られる地合の「バランス」によって判断しなくてはならない。

この辺りの感覚を磨くには、やはり「布石」からの発展形式を数多く見て勉強していくしかないのだろう。つまりはプロの棋譜などを勉強していくのがもっとも効果的なのだと思う。

以前、私にとっては「棋譜」の勉強はまだ早いと書いたけれど、最近パソコンを利用した棋譜の勉強ならお手軽だし、ちょっとやってみようかなんて思っている。インターネット上には無料で棋譜を見ることができるサイトも数多くあるので、まずはその辺りから。

尚、この日の講義後の手合い。弟子は1勝1敗。1勝は先生たちによるアシストなどもあった様子。やはり私にいぢめられているせいか、「効率」を計算することができなくなっているようだ。隅を守ろうと手数をかけているうちに、相手は絶対の勢力圏を築いてしまう。

弟子の打ち筋

たとえば、序盤から上図のように打ち進めてしまう。確かに、これで隅は間違いなく守れるだろうけれど、もはや中央部に進出することはかなわない。

授業でも言われていたが、「生きることがわかれば大場へ」。それをマスターすれば現在の私くらいには四子もあれば楽勝で勝てるようになる。

頑張れよ>弟子。

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