2002年12月19日

「9歳に連勝!」 −フリー対局−

今日のメインイヴェントは9歳の子との対戦。10月14日の日記にもかいた「S」君。棋歴1年ほどの小学生だ。10月14日の対戦では2連敗した。とにかくかわいい彼の外見と(本当にかわいいんだ、これが)、打ち込む速度に圧倒されての敗戦だった。

で。ハッピーマンデーの先生たちの見立てによれば、私とこの子の棋力はさほどかわらないとのこと。「先生たち、なんで俺をかいかぶってんのかな。年寄りだからかな」と思いつつ、先日彼と再戦の機会があった。

その時の彼。20手目くらいの序盤に「天元だっ」の掛け声とともに天元に打ち込んだ。隣で見ていた先生が「それはないな〜」と言っていたのを聞いて、「と、いうことは私にチャンスがあるに違いない」と、積極的にS君の石を攻めていった。結局は彼の天元打ちが敗着となり私の完勝。

まあ彼の「天元打ち」はまあ遊びの手。私をくみし易しと見て天元打ちを敢行したんだろう。彼の考えよりも私が少々マシな打ち手であったということかなと、そのときは感じた。

そして。本日このS君と再戦。今日の彼はなんだかクリスマスファッションでかわいい(ん?なんか女子高生の日記ウェブみたいな文句だな(苦笑))。「かわいいなぁ」と思いつつ序盤の交換。序盤では私の石がうまく機能していたのだけれど、右下の攻防で一手の間違いを彼が徹底的についてくる。そう、とてもかわいい彼なんだけど、自分の弱点を攻められたときの応手や、相手の弱点を見極める眼力は鋭い。

「S君。相手の一手のミスをそんなに攻め立てちゃかわいそうじゃないか」と情に訴えてみる。彼はかわいらしく「えへへ」と。しかし彼の攻めは緩まない。

情に訴えても駄目だったので、しかたなく守る。布石で築いた私の優勢はあっという間に消えた。中央での戦いでは彼に利があると思う。「もうやることないな〜。こまったよ、S君」とまだ情に訴えてみたりもするんだけどきいてくれない。

ふと。右上を見ると、彼の二つの拠点を同時に攻める手筋が見える。どちらかを絡めトル手筋は見つからないけれど、しかし優勢を完全に崩された私の着手はそこしかない。「おりゃ」と打ち込み。「えへへ」と彼が受ける。うむ。私の決意の一着も彼に軽くかわされるんだろうかと感じる。しかしもうここしかない。攻めを続ける。

と、彼がひとこと。「えへへ。死んじゃった」。満面の笑顔。うう、なんてかわいいんだ。

死んだ彼の石はそれなりの大石。あとは彼の利のある中央での戦いをなんとなくかわして終局。20目ほどの差で私の勝利となった。

これで通算成績は2勝2敗なれど、私の2連勝。

「S君、ぼくもちょっとは強くなったかな」。
「まえださん強いよ。負けてばかりだ」。

よしっ! 彼の記憶の中では「前田さんは強い」ということが焼きついたらしい。ともに石を片付けて「ありがとうございました」。そう、彼はかわいいだけじゃなく、ちゃんとご両親に躾けられていてとても礼儀正しい。まさにオヤジキラー(爆)。まだ時間もあるからもう1局打っても良かったんだけど、勝ちの思い出を大事にしたいじゃないか(苦笑)。

で、かわいい男の子の次は美しい女性と対局。私が絶不調の頃に対局して負けてしまった女性。打ってみると、やはり現時点では私の棋力が大いに勝っている様子だった。当時の不調の深さを思い知るとともに、自分の進歩が嬉しくなった。

私も先生方も彼女にいろんなアドバイスをしているうちに時間となり内掛け。最後はコウ争いをしているうちに、別の箇所にコウ含みのセキができるという面白い展開だった。本当はそんな手はいやで、相手とフリカワってしまおうと思ったんだけど、先生方が「それじゃあつまらないでしょう」と。

根が関西人の私はギャラリーの期待に応じてコウ含みのセキへと進む。そしてコウ立てに選んだ私の手を見て先生方。「妖しい!」。「なんだか相手の時計を進める手ですね!」。

ふむ。ギャラリーにも喜んでもらえたようで、良かった良かった(笑)。
弟子。

今日の弟子は、私の絶不調と、その後の大躍進を生むきっかけとなった女性との対戦。とにかく攻撃が好きで、当時の私は布石で圧倒しながらも、彼女の攻撃によりボロボロとなってしまった。当時の私はキリすら打てないタイプだった。そんな私の石を縦横無尽にキリ進み、私を混迷の底に落としこんだのだった。

最初は弟子が先番で圧勝。次には弟子が後番で完敗。まあ相手の打ち筋に驚いてしまった(この弟子はとにかくよくいろんなことに驚くのだ)のが敗因だろう。もうちょっといろんな人との対局を重ね、自分の打ち筋に自信を持つようになれば勝てるはず。

弟子はいつも私にビシビシと切られているので、切り自体には驚かなかったようだが、執拗な攻撃に驚いてしまったようだ。なんでもそうだけれど、攻撃は不発に終わってしまえば後に繕いようのない弱点が残る。相手の攻撃を軽く受け流し、その後の相手の弱点を突けるようになればたいしたものなんだがな>弟子。
弟子2。

弟子2は、上に書いた弟子の対戦相手とお友達。よく一緒に打っているんだけど、今日も二人で打っていた。見ていると、相手の攻撃にひたすら受けまくっていた。「なぜそんなに受けまくるの?」と問えば「昔、相手の手を無視したら囲碁は対話なんだから受けてくれないと寂しいって言われたから」なんて。

まあそれはそうだ(苦笑)。それに相手の攻撃は受けなければ自分の陣形がなくなってしまう。しかし。受けながらも、相手の応手を求め、それにより自分が先手になるというポイントを探す努力を怠ってはいけない。最初のうちは気付きにくいのだが、囲碁における先手・後手というのはとにかく大きい。一箇所先手を取り損ねただけで勝勢が敗勢に変わってしまうこともある。

単純な受けはできるのだから、間違っているわけじゃない>弟子2。しかし、あくまで順番に打っているわけなんだから、間違ってない、だけじゃ勝ちにもっていけないんだ。守勢のときこそ攻勢に出るポイントを探すようにしてみよう。

投稿者 前田博明 : 23:00 | トラックバック

2002年12月16日

「ノゾキ」 −講義−

講義は「ノゾキ」。

相手のイッケントビ(一間飛び)や断点を「次にキリますからね」と置く手を言う。「ノゾキに継がぬ馬鹿はなし」だかなんだかという格言があるそうで、一般的にはのぞかれた場所を繋ぐことになる。

で、対戦。と、いうか今日は手空きだった。いろんな人の手を見て回った。

見ていて思ったのは、序盤の石のやり取りを見て形勢判断ができるようになったということ。少なくとも私にとって、碁の形成を見るのは難しいことだった。自分で打っているときにも自分が勝っているのか負けているのか判断できない。それで単純に地になりそうなところを地にしているうちに負けることもあった。

しかし最近になって、ようやく黒と白のどちらが勝っているのかが判断できるようになった(もちろん数目差の細かいところはわからない)。形勢判断ができることで、無理をしても攻めるべきなのか、安心して守っておけば良いのかを判断することができる。おかげでせっかく勝っている勝負を自分の無理手で壊してしまうようなことはなくなった。

そうこうするうちに、先生に指導碁をしてもらっていた初心者の男の子が勝負を挑んできた。先日二子局で80目程度の差をつけて勝った相手だ(もちろんそんなに差のつく相手に対し、真剣に勝ちに行くのは大人気ないがいろいろ事情があるのだ)。

「やりましょう」と言ってくるので勝負を受ける。横から知り合いの女性が「四子局くらい?」と言うも、相手の男の子は「いや互いでいいですよ」なんてことを言う。このひとことにより本日も私の大勝が決定した(笑)。結局は百何十目差で私の勝ち(苦笑)。相手の地を埋めても膨大にあるアゲハマを数えるのはやめておいた。

彼の悪いところ。今日は何を思ったか、隅に先着せずにカカリを打ってきた。私が一応受けてもまだ隅に先着しない。なので私が3隅を占めることになった。

また、形勢が固まったのちに隅の地を求めて入り込んでくる。こちらが応じなければならないところならまだしも、一切応じる必要のないところに入ってくる。彼はただただこちらのアゲハマを増やしているだけだった。

囲碁の勝負。「一に空隅、二にカカリ。三に辺への展開」。これはよほどの実力差があるのでない限り、否定しようのない棋理。だから下手は上手に対して隅に石を置いて勝負する。非常な上手は目ハズシを打ったり、隅に先着せずにカカリを打つこともあるけれど、それは素人にはうかがい知れないヨミがあるからだ。そういう形をまねてもしょうがない。

さらに彼は。未だ囲碁のことを「気付く・気付かないのゲーム」と思っている雰囲気がある。石が込み合ってきたとき、既に死んでいる石の近くに手を入れ、こちらが気付かなければ大復活に繋がるような手を連打していた。もちろんこちらは気付く。前にも書いたように思うけれど、囲碁を「気付く・気付かないのゲーム」と思っているうちは強くなれない。また囲碁の面白さもわからない。さらには対局相手にも「潔さのない奴」と思われてしまう。注意して欲しいと思うところだ。

その後。最近弟子二号(?)となった女性と二子局。最初、彼女がなんだか変な手を打ってくるのでそれに応じていると、自分の手もすごく気持ち悪い手になった。ひと隅にやけに石が密集している。一応攻め合いには勝てそうな展開だったけれど、人に見られたくない。どうしようかと思っていたら彼女も気持ち悪くなったのか「最初からやりなおしさせてください」。

望むところなので最初からやり直し。

で。この二局目は最後まで打ち切ることができた。結局は私の大勝になってしまったけれど、あまりに明白な彼女の弱点がいくつか明らかになったので指摘しておいた。

たとえば「自分の模様を平気で無視する」ところ。「模様」は「地」ではない。だから模様をひたすら守ろうとするのは間違い。しかし模様を作ったのであれば、その模様を活用して「地」を作らないと打った手がもったいない。すなわち、模様に入り込んできた相手を攻め立てることで、自らの地を固める。それが通例だ。

しかし彼女の場合は模様に入られると別の場所に模様を作りに行く。模様を作ってもそれを活かさなければ結局は単なる棒石が縦横に延びているだけ(ひどい場合には全部死に)になる。私も一時この勘違いにはまっていたのだけれど、囲碁はあくまでも「地」を取る勝負。自分の石がたくさん伸びていても、それが「地」になっていなければ負けるのだ。

あるいは。これは伝えなかったのだけれど、「行きがけの駄賃」の手が多いようにも思う。アタリにできるときにはアタリにしてしまう。伸びることができるときには伸びきってしまう。そう、上手の人なら「味消し」と呼ぶような手筋。

モノの本によれば「必要のない手は全て悪手」。すなわち「行きがけの駄賃」のつもりで狙いなく打つのは良くない。直接的に良くない結果を招くのではないかもしれないが、将来に存在したかもしれない素晴らしい狙いが消えてしまう。それを上手たちは「味消し」と呼ぶのだ。

もちろん。この「必要のない手」を完璧に見極めることができれば、それはかなりの上手なんだろう。最初のうちは「相手が無視しても、こっちの得にならない手」が不必要な手と思っていれば良いのかもしれない。

で、ホントの弟子の話。今日は弟子の勝負をほんの5、6手見ただけだった。その5、6手の中で弟子はやけに細かいところに連打していた。帰る道すがら「自分の石が生きていて、相手の石も生きている箇所において、コスミしか打てないようなら別に打つ場所を探した方が良い」と伝えてみた。常に当てはまるわけでもないけれど、絶対に間違っているというわけでもないと思う。

弟子曰く。「そのひと言。なんか大きいかもしれない!」。弟子は以前。「俺が君の石を右から攻めるのなら、君は左側に地を作ればいいじゃないか」と言った途端に二子ほど強くなってしまったことがある。今回の言葉で弟子はまた二子強くなるのかもしれない。

ちなみに。今弟子は私と二子局。二子強くなったら互先になるな>弟子。

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2002年11月27日

「リベンジ!?」 −フリー対局−

フリー対局の日。今日は客先から直接棋院に行った。はやく着きすぎてしまって誰もいない。待つことしばらくで先週嵌め手に騙されまくった女性がやってきた。

「さ。打ちましょう」。「え、私着いて早々休憩もできないんですか?」。「だって二人しかいないんだから打とうよ」。

そんな流れでかわいそうな彼女は休憩する間もなく対局することになってしまった。

先週の結果もあるし、石を置きたそうにする彼女。「そんなに実力の差はないよ」と説得する私。「石を置くとまた先週みたいに嵌め手が炸裂しちゃうよ」と脅す私(笑)。

結局は彼女の先番ということで対局開始。

こんな初心者の私が言うのもなんだが、彼女の弱点がいくつか分かった気がする。

* 相手に攻められると、守ることのみ意識が行ってしまう
* 自分が有利な局面でも相手の模様に入っていくことを躊躇う
* ひとつの攻撃が失敗すると、大混乱になり間違いを繰り返す

こういうのも失礼だけれど、なんだかかわいい(笑)。

手筋の面では私と実力は変わらないと思う。でもこちらが攻撃に出るととたんにその局面だけしか見えなくなるようなのだ。私はずぶとい方なので良くわからないのだけれども、これは気持ちの持ち方ひとつですぐに修正できるんじゃないだろうか。

攻められたとき、守ることのみを意識するのではなく、むしろ相手の弱点を探してみる。碁は順番に黒白打ち合うわけだから、普通はどちらか一方が圧倒的によくなることはないはず。相手の一方的攻撃チャンスに見えるときでも、冷静に盤面を眺めれば相手の弱点を突けば相手の攻撃をかわすことができるケースも少なくない。

まあこれも「盤面を見る能力」と言うこともでき、それはすなわち私と彼女の間の実力差であるということもできる。しかし、あくまでも私たちは初級者レベル。何も難しい局面判断を競っているのではなく、極端に言えばアタリを見逃すか否かというレベル。こんなのは「実力差」とは言わない。

「落ち着いて、そして積極的に」。彼女はこのことさえ気にしていれば私レベルとは互角に打てるはずだ。

で、彼女は日曜日に会社の方を訪問して囲碁の相手をしてくれるそうだ。「いやいや互角ですよ」とかなんとか言いつつも、私だって弱くありたいわけじゃない。負けないようにお勉強しておこう(笑)。

弟子は囲碁を始めて1ヶ月弱くらいの高校生と対戦。この高校生、結構囲碁にはまったらしく、あっという間に強くなってきている。高校生の黒盤(コミ無し)で対局して、弟子のミスもあって10目ほど高校生が勝ったそうだ。

それにしてもどうして若い方が進歩がはやいんだろうなぁ。中学生くらいで囲碁を始めて弱いまま終わるという人を、少なくとも私は見たことがない。いましばらくの間はこの高校生に勝っていたいものだと思う(笑)。

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2002年11月25日

「定石」 −講義−

講義は「定石」。

囲碁の世界には、「定石を覚えて二目、弱くなり」なんて言葉があるらしい。

「定石」とは、これまでの囲碁の歴史の中から、「双方ともにこの通りに打てば基本的に互角の展開になる」ということを示す序盤の手筋のこと。よく勘違いしている人がいるが、「序盤は必ずこう打つ」というモノとはちょっと違う。同じような位置にても定石の数は無数(無数、ではなかろうが、非常に多くある)にあり、中盤戦への狙いを持って、いかなる定石を採用するか、あるいは定石の途中で手を抜くか、さらには定石からどのように変化させながら手を進めていくかということを考えなければならない。

すなわち、「序盤の打ち方は決まっているので面白くない」というように思い込んでいる人。それは間違いだ。

で、定石を覚えて弱くなるように思えるのはなぜか。それはつまり、相手に定石から外れた手筋を打たれると、それにうまく応じることができないということが大きい。先にも書いたように、定石とは基本的に黒も白も互角の展開になるための手筋。その筋を外れれば基本的に外した側が不利になるべき。しかし素人碁では応手を間違えてしまい、定石を外した側が圧倒的に有利になることも多い(俗に言う無理手)。

このような失敗をなくすためには、定石における石の「形」のみを覚えるのではなく、それぞれの石の「働き」を理解する必要がある。そして相手が「無理手」を打ってきたときには、自分の石と相手の石の「働き方」を判断し、正しい応手を打つ。

ま、こんなことは言うはやさしいが実戦は難しい。私にはそんなことは一切できない。お互いに定石を外し、外した中で有利にも不利にもならず、なんとなくゲームが展開する。経験を積めば定石外しを咎めることができるようになるんだろう。

対局。

今日は対局の話はあまり書きたくない。初めて対戦する女性が相手だったのだけれど、序盤戦はこちらが圧倒していた。相手の方は結構無駄な手が多く、それで気を抜いてしまった。これは失礼なことだし、それによって結果も悪くなる。結局は隅の大石に対する相手の攻撃を許してしまい、大石を取られた。自分も下手なくせに、相手のレベルを勝手に判断するなどとおこがましいことをしてしまった当然の結果だっただろう。

弟子。今日は弟子の対局は見ていない。最近少し進歩した私に四子局でも惨敗するようになってしまい、やや落ち込んでいる様子。布石(めいたもの)を交換してからの打ち方がよくわからないとも言っていた。ふむ。でもそれはみんなが通る道。

最初は全体のバランスだとか連携など考えずに「ここを守る」「ここを攻める」と、局面的なことを考えて打っていれば良いのだと思う。そのうちに盤面全体のバランス感覚が身に付いてくる。頑張れよ>弟子。

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2002年11月20日

「嵌め手」 −フリー対局−

フリー対局の日。本日は参加者やや少なく、弟子と四子局で打っていた。そこに、弟子の相手として適当な相手がやってきたので観戦に回る。いろんな人の手を見ているうちに手空きになった人が出たのでその人と対局。

相手の方は弟子よりやや上手の人。ちょっと相手の石音に反応しすぎるところがあるけれど、まあ悪い打ち手じゃない。で、はじめようとするとおもむろに石を置く。「え、置き碁ですか?」。「ええ、三子局で」。ふ〜む、本当の実力で言えば三子も離れてないと思うんだけれども。二子でならちゃんとした碁での勝負で良いところか。三子置かせるとこちらはやや相手を驚かせる手で応ぜざるを得なくなる…

結局「じゃんけん」で彼女が勝ち三子局。いくつか石を交換したところで、やはり嵌め手を打たねば勝負になるまいと判断。強くなってきた弟子を相手に嵌め手は鍛えているので(笑)、私の得意とするところだ(苦笑)。

で、結局。嵌め手に見事なまでにはまる彼女を前に完勝。後半は完全に自分の応手に自信をなくした彼女。完全に無理な挟みツケの連打に手もなく隅を奪われた。

「私、騙されてます? ねぇ、騙されてます?」。そう、騙されてる。でも碁の打ち方を知ってる人に三子置かせると、私レベルだと嵌め手で応じないと勝負にならない。「ええ、あそこの手は下がってるだけで完全にあなたの地にすることができたんですけどね」、と私。

「そっか〜。やっぱ社長なんかやってる人は人を騙せないとだめか」。

あっはっは。それはねーだろって。

ひとまず休憩して今度は四子局。まずは右下の攻防となり、私は嵌め手の上を行く無理手で攻める。前局で私に騙されまくった彼女は混乱の極み。石の形を見て「なんだか変だな?」と思ってはいるらしいけれど、なんとなく私の悪手が「手」に見えてしまうらしい。かわいそうに彼女は種石となる三子を囲まれ、結局五子にして取られてしまった。

通りかかった講師の方に彼女は聞く。「ここからどうすれば良いんですか?」。講師の方曰く「え、そこの石、取られてしまったんですか?」。「そうなんです。だからどうするのが最善なんですか!」。講師の方は冷たく言い放つ。

「投了でしょう」。

かわいそうにそこで彼女は投了となった。四子置いた左辺の二子は、近くに石を打たれることもなかった。

彼女もたまにこのページを見てくれるそうだから書いておく。昨日の「碁」で自信をなくす必要は全くない。嵌め手には正しく応じれば絶対に自分が勝てるはず。だから普通の対局ではあんなつまらない「嵌め手」を打たれることなどないはずなんだ。「嵌め手」は打つ側が馬鹿。それに応じられないからといって、囲碁の力が劣っているということにはならない。

まあ昨日の対局から学ぶことがあるとするならば、「嵌め手には必ず無理な形がある」ということ。昨日私が繰り出したさまざまな悪形を覚えておいて、その無理を咎める勉強はすればいいだろう。それにより中盤の紛れにも強くなるはずだ。

参考までに言っておくと、昨日彼女が最初に対戦した相手(中学生)は私より数段上手。彼女は二子置いて一応最後まで打ち切ったらしい。で、その相手に私は二子置いて負ける(彼が気を抜けば勝つ(笑))。「ちゃんとした碁」を打てば、そのくらいに勝負にはなるはずなのだ。私に四子置いて負けたということは、それは私の手がほとんど全て「嵌め手」で構成されていたということ。

あくまでも「ゲーム」として打った碁だったので、あんなことで自信をなくしたりしないで欲しい。

弟子。

以前、弟子が二子置かせて勝負した相手との再戦だった。中盤を見ると、弟子の大石がほぼ死んでいる。「どうしたんだ」と問えば、なんとなく相手のキリに応じているうちにそんな形になってしまったらしい。完敗の情勢だ。ただ、望みは弟子の死に石を復活させる手筋が残っていること。「打ち込み」が必要なので、おそらく気付きにくいところなんだが、「やってみよー」なんて偶然そこに打ち込めば弟子の圧勝となる。

結局。弟子はやはりその「打ち込み」の筋には気付けず、自分の石は死んでしまった。ただなんとなく「その辺り」には拘っていた様子が見えた。すなわち「この形は何か手がありそう」なんて思ったのかもしれない。そういう感覚が非常に大事。「手がありそう」な形に拘っているうちにいろいろとわかってくる。

ただ、そこの大石の復活がなければ相手の完勝と見えた勝負も終わってみれば六目程度の差だったらしい。どうやら弟子がキリ進むうちに隅への侵入を許してしまったらしい。もしかして弟子も師匠に似て「嵌め手」を操るようになったのか(笑)?

弟子の対局相手の方は終局後、講師の方に「私の級位、上がりませんか?」と問う。講師の方の見立てでは、相手の方は厳し目に見て19級くらいらしい。と、いうことは弟子は16〜17級? 強くなったじゃないか>弟子。そのうちに私の「嵌め手」をびしびしと咎めてみてくれ。

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2002年11月18日

「ルーマニア人との対戦」 −講義−

講義は「五子局での打ち方」。強い相手と対戦する際、自分が石を置かせてもらっていかに戦うかという内容だった。

そう。一般に五子置けば非常に大きなハンディとなる。しかし私などの場合は、最初九路盤で打ち始め、そして十三路、十九路と移っていった。一般に盤が小さい方が上手・下手の差が出にくい(そもそも囲える地が少ないのだから当然だ)。したがって私は石を置いて戦った経験がほとんどない。だから置石をしてもどのように戦っていけば良いのかわかりにくいのだ。

今にして思えば、強い相手に石を置いて勉強するのは非常に良いことだと感じる。つまり「大場の大切さ」や、「模様の働かせ方」などを勉強することができる。今後、石を置く機会があれば積極的に打ってみたいと思っている。

対局。

今日はなんとルーマニア人女性との対局だった。ハッピーマンデー囲碁講座講師のハンス・ピーチ先生がドイツ人であることもあって、ヨーロッパに知己が多い様子。この日は外国のゲストもたくさんいて、やけにインターナショナルな教室だった。そういうときこそ「手談」の魅力を感じる人もいることだろう。

で、私の話に戻る。

相手の女性は日本で言えば段位者程度の実力らしい。大きに石を置かせてもらっての対局だったのだが、敢え無く中押しで負け。相手が地にしたがっているところをどこまで守れば良いのか判断に苦しんだのが一番の敗因。また、私が手を抜いたところが争いの焦点になってきたので、そこで紛れを求めて石を置いてみたのだが、さすがに段位クラスの実力を持っていると「間違い」をおかさない。相手が一手間違えれば私の大石が復活ということになって勝負はわからなかったが、さすがに「相手のミスを求める打ち方」ではいけないのだ。

段位クラスの実力を持つとはどういうことか、ということが大いに勉強になった一局だった。「No way ?」との私の質問に彼女が頷いて終局となった。

弟子、だ。弟子は上手を相手に先番で打っていた。東北大学に留学中のルーマニア人男性がいろいろとアドバイスしたりしていたので、私はあまり見ていなかったのだが、結局2戦して2敗。いずれも20〜30目の差だったようだ。うん。相手の上手とは私も打ったことがある。だいたいその程度の差だろう。

弟子に最近言っていることは、「逃げるときは足早に」ということ。それから「石の弾力」ということ。弟子は相手に封鎖されそうになると、ひたすら石を固めて守ろうとする。固まってしまった石は「ダンゴ」と呼ばれ、悪形とされる。上手は一子の働きを最大限に活用するために、石が固まることを嫌う。また、固まった上に眼形の確保もできなければ、大石にして取られてしまう。

「いいか、逃げるときは一間で足早に」。相手の石が迫ってきているときに一間で逃げていくのはやや怖さを感じることもある。しかし、くっつけて打っていては他の石との連絡もできず、眼形も確保できない。思い切って一間で逃げていかなくては活路は見出せないのだ。

ちなみに「石の弾力」とはいろんなケースで使われるようだが、基本的に「眼形を意識した形」というような意味で使われることが多いようだ。ときには「コウ」も意識しながら石に弾力を持たせる。そして足早に逃げる。

弟子がその辺りを覚えれば、二子で私に勝てるようになるかもしれない。それを覚えた後には攻めの手筋。碁の本にはよく書かれているけれど、攻める時には「モタレの手筋」のような「勇気のいる手筋」がいろいろとある。もちろん理にかなった打ち方なのだが、実戦で活用するにはやや勇気がいる。

そこまで意識できるようになれば、二子の私には勝てるようになるだろう。そう、その手筋を覚えれば、ではない。攻めるときに必要な「ちょっとした勇気」。これを意識するだけで打ち筋は随分と変わってくるのだ。

ま、あまり早々に追いつかれても面白くない。師匠の特権でじわじわと教えていくことにしよう(笑)。頑張れよ>弟子。

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2002年11月13日

「三昧郷へ」 −フリー対局−

楽しい。これまでの短い経験の中で、囲碁を打つのをこれほど楽しく感じている時期はない。

たとえば「考える」こと。上級者は何手も先を読み、そして着手する。私のような低級者にそのような高度な技は使えない。低級者が着手に時間をかける場合、たいていは「こんな着手はおかしいのではないだろうか」ということを考えている。私も1週間前までそうだった。しかし今、ようやくいくつかの可能性ある着手から、戦略に応じて手筋を選択できるようになりつつある。無駄に考慮時間を使わなくなってきた。これが実感できるのはとても楽しい。

本日のフリー対局は、はるか上手の中学生。最初二子で負け。次に同じく二子で、自陣深くに入り込んだ相手の四子を殺す絶妙のノゾキをアドバイスしてもらって勝ち。次には気分を変えて十三路盤。相手の中学生が死活を勘違いして手抜きしたところを殺して勝ち。

「小さい盤は苦手です」というので、次は九路盤にして(笑)、相手の見損じを咎めて三子取って中押し。相手が「やっぱり十九路でもう一局」というので、「もう時間も遅いからハンデ戦で」ということで強引に四子置いた(笑)。落ち着いて打てば四子でも中学生に勝ちがあったかもしれないが、私とて先週1週間で八子実力を伸ばしている。ぽんぽんと打ち合ううちに大勝。

キリ、ノゾキ、オキ、ハネを効果的に打てるようになってきた。これは弟子に四子置かせて打っていた経験にもよる。これまでに読んできた多くの囲碁本で得た表面的な知識が徐々に身になってきているように感じる。

ウェブ上にある級位認定問題(手筋、死活等)ではたいてい一桁級の正答率をあげられるようになった。ま、問題集を解くのと対局とはぜんぜん別物で、実力的にはまだまだ二桁級ではあるけれど(囲碁の級は30級からある)。

ちなみに、いつものように弟子の話。

応手がすごく上手になってきた。うっかりすると十三路盤を先(セン:黒番でコミなし)で打って師匠を圧倒することもある。十九路でも四子だと、こちらが強引に勝ちを狙うことはできなくなった(三子でも打ってみたが、もはや二子程度で十分だと思われる)。アタリを見逃すチョンボは相変わらずだが、こちらの「狙い」を的確に判断して、狙いを外す応手を打つ。ちょっと上手になりすぎて師匠としては嬉しい反面悔しさもある。「やっぱり青は藍より出でて、ですよね」とか言われないように頑張らなくては。

ちなみに本日のフリー対局では、なんと弟子が二子置かせて対局していた(もちろん講師の方の指示による)。私ですら相手に置かせた経験はほとんどない。講師の方々はいちはやく「やっぱり青は藍より出でて」とか思っているのかもしれない(涙)。結果は1勝1敗だったそうだ。

今後も弟子が(生意気にも)石を置かせて打つことがあるのかもしれず、参考までに書いておく。相手に石を置かせる場合、「応手」の巧拙はあまり問題にならない。相手に先手を取られれば、置き碁は必ず負ける。自分が先手を取って相手を攻め立てる構想力、攻撃力が必要になってくる。

しかしまあ。弟子がそんな技を身に付けたらもはや私では師匠がつとまらなくなってしまうだろう。「ほどほどに」頑張れよ>弟子。

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2002年11月11日

「1週間で8目」 −講義−

「私のことばかりじゃなくて、自分のこと書けばいーじゃないですか」と、弟子に言われた。

しょうがないじゃないか。師匠はあまりの不調で自分のことを書く気力がまったくなかったのだ。しかし。これはもう声を大にして言って良いだろう。「復活」だ。

「ハッピーマンデー」の講座での先週の講義内容は「大場」。それがきっかけになったような気がする。

最初、私は「模様」に打ち込まれることすら耐えられない感じだった。模様に打ち込まれてしまうとそのままずるずると大敗を喫した。そこから、やや石を固めて打つようになってしまった。そして「地」にする予定で囲い始めたところは、たとえ1目といえども相手には与えないという打ち方をしていた。

こんな打ち方をしていて上手に勝てるわけもない。私は敗因がつかめず「戦い方」が悪いのかと、戦い方の本を何冊も読んでみた。しかし出題される手筋の問題には結構良い感じで正解が出せる。ひとつの局面の中での問題ではなく、もっと全体的な問題のようだと自己分析した。

しかし。この自己分析が即座に「大場」の考え方とリンクしたわけじゃない。「全体的な問題」とはすなわち、碁を打つのに向いているかどうかという問題なのではないかと考え、碁を完全に諦めようかとも思った。しかし囲碁番組を見るのは面白いし、碁もまだまだ奥が深そう。やめてしまうのはもったいないことだとも考えていた。

そうしてモンモンとしているうちに、先週の授業に出会ったわけだ。

「模様は言うに及ばず、地にする予定で囲い始めたところで二、三目失うことはぜんぜんたいしたことじゃない」。「大場」と呼ばれる場所に先着すれば、1手で十目程度の地を自分のものとすることができる。

もちろん、地にする予定で囲い始めたところを、完全に殺されてしまっては元も子もない(大場より急場)。しかし生きが確定したならば、次の場所に手を進めるべきだったんだ。

このことを、本当に心の底から理解した。そのことに気付くまで40目差で負けることもあったコンピュータゲームで、たいてい40目程度の差で勝利するようになった。差し引き80目、地を囲えるようになったわけだ。置き碁に換算すれば8目の成長。今回の成長は確かな手ごたえを感じる成長だと思っている(そんなことを言いつつまた不調になったらどうしよう…)。

ちなみに。昨日の講義の後の対戦は、私が二子置かせてもらって強い人との対戦。相手のミスもあったが持碁(引き分け)に持ち込むことができた。自分で感じている「手ごたえ」がまやかしでないことを感じた一局だった。弟子も十九路で大勝したとのこと。最近の私の復活のせいで、一緒に打つときは大負けを食らわされている弟子。しかし君の実力も間違いなく上がっているのだ>弟子。

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2002年11月04日

「大場」 −講義−

新しい月に入った。すなわち、弟子が囲碁を始めて1ヶ月経ったということ。

現在の弟子の状況は十九路で形を覚え、私とは四子で打っている。まだ「ちょんぼ」があるので私に大石を取られたり隅を殺されたりするのだが、打ち筋はわりと良い感じ。こちらが陰険に隅を殺しに行かなければたまには四子で私に勝てることもある。やっぱり教えてくれる人がそばにいるのは良いことだ。

と、いうわけで私にも教えてくれる人募集中。中学生・高校生のアルバイトにどうかな?>全国の中高生。

今日の講義はプロの最初の20手程度を参考にして「大場」への進み方。何度も書いているけれど、囲碁では隅に地を作るのが一番効率的で、続いて辺、そして中央の順番。で、一般的に星のある場所(下図で石の置いてある場所)を一般的に大場と言う。

大場の打ち合い

図は黒白順番に、いわゆる「大場」を占めた図。隅と辺を効率的に守りつつ、中央への進出も見ているという感じ。

もちろん星の辺りに石を置いてもまだまだそこが地になるというわけではないけれど、攻守の「バランス」を考えるともっとも効率的な場所ということになる。

私も含めた囲碁初心者にとって、この「バランス」がなかなかマスターできない難物。布石の本などを読んで、効率的な布石をマスターしても、自分の石を攻められるとついそれに応じてしまう。

本当は、相手の石に応じるか否かは、相手の攻めによって失う地合と、他の大場に先着することによって得られる地合の「バランス」によって判断しなくてはならない。

この辺りの感覚を磨くには、やはり「布石」からの発展形式を数多く見て勉強していくしかないのだろう。つまりはプロの棋譜などを勉強していくのがもっとも効果的なのだと思う。

以前、私にとっては「棋譜」の勉強はまだ早いと書いたけれど、最近パソコンを利用した棋譜の勉強ならお手軽だし、ちょっとやってみようかなんて思っている。インターネット上には無料で棋譜を見ることができるサイトも数多くあるので、まずはその辺りから。

尚、この日の講義後の手合い。弟子は1勝1敗。1勝は先生たちによるアシストなどもあった様子。やはり私にいぢめられているせいか、「効率」を計算することができなくなっているようだ。隅を守ろうと手数をかけているうちに、相手は絶対の勢力圏を築いてしまう。

弟子の打ち筋

たとえば、序盤から上図のように打ち進めてしまう。確かに、これで隅は間違いなく守れるだろうけれど、もはや中央部に進出することはかなわない。

授業でも言われていたが、「生きることがわかれば大場へ」。それをマスターすれば現在の私くらいには四子もあれば楽勝で勝てるようになる。

頑張れよ>弟子。

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2002年10月28日

「死活」 −講義−

本日の講義は死活。囲碁は「二眼」のない石は死に石となる。すなわち相手に取られてしまう。「二眼」を理解するのに知っているべきことは、「相手の石を囲めば取ることができる」というルールと、「着手禁止点」というルール。

詳細な説明は入門書などに譲るが、「二眼」あれば「着手禁止点」の関係で相手の石を囲むことができなくなる。すなわちその石は「生きる」ことができるわけだ。

こう書くと死活は単純に見えるかもしれないが、白、黒の形が変わってくることでとてつもなく複雑になる。複雑になってくると「ホウリコミ」や「ウッテガエシ」などのテクニカル・タームも関連してくる。書店で売られている「詰め碁」の書籍は、この死活に関わる問題を集めたものだ。

弟子は今、私と十九路盤四子局(弟子がハンデとして最初から4つの石を置く)で打っているが、せっかく置いた石をいじめられて取られてしまうことも多い。そのせいで死活に自信を失い、必要以上に守ってみたり、見当はずれなところを守っている様子。死活は勉強して覚えることもできるが、まあ「慣れ」。もう少しすれば「なんとなく形が悪いみたい」とわかるようになるはずだ。

弟子の話が出たついで。

やはり弟子は十九路の広さに呆然としているようだ。昨日は弟子とほぼ同じ実力の人と対局していたが、「隅を守りたい」という気持ちと「でも隅に封鎖されてしまっては勝ちがない」という両方の気持ちのせいで、守るでもなく攻めるでもなく、大量の団子石(意味なくかたまってしまった石をダンゴと呼ぶ)を作ってしまっていた。双方ともに相手の石を十数個取っての乱戦になっていた。

まあ弟子の不調(と、いうほどでもないが)は私の責任が大きい。このところ不調だったせいで、弟子との対局では本当に「イヂワル」な手筋を多用していた。おかげで師匠の私はこれまで苦手だった「戦い」に慣れてきたが、弟子は「いぢめる?」と「ぼのぼの」のように臆病になってしまった。しばらくは置石なしの指導碁を打って、きちんとした手筋を覚えさせてやることにしよう。

ところで。

昨日の私はまたずいぶん若い少年との対局。たいていの場合、少年たちは「結構マジ」に碁を打っている。「やがてはプロに」と考えている少年もいる。そんな少年たちと打つと、こちらが妙な手を打ってつまらない思いをさせてしまうのではないかという緊張感がある。もともとうまい碁ではないが、その緊張感のせいで余計に変な手を打ってしまうこともあるわけだ(負け惜しみかな)。

それでも。

昨今の絶不調から見ると、この日の対局は自分なりに納得する碁を打つことができた。一箇所、ウッテガエシにて相手の石を取れる形になったところもあった。そんな形の手ができただけで「ほのぼの〜」と嬉しくなってしまった(苦笑)。結果は20目くらいの差で負けたものの、復活の兆しを感じる碁ではあった。

それもこれも。

苦手だった「攻め」の碁を覚えさせてくれた弟子のおかげ。君はいじめられてばかりでつまらなかったかもしれないが、おかげで師匠は一皮向けた。ありがとう!>弟子。

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2002年10月21日

「三連星」 −講義−

いつもは不調になると、『よくわかる囲碁 序盤の打ち方』(小川誠子・新星出版社)を読んで復活する。この本、日本棋院で購入したのだが、最初に読んだときにも「わかりやすくて良い本だ」と思った。そして「地」と「勢力」のバランスで悩み、わけがわかんなくなったときに読み直して調子を取り戻すこともできる。

しかし。今回はこの本の効き目も及ばなかった。相当な不調だったのかもしれない。まあ、不調というよりも「本当の実力」が付いていないというだけのことなんだけれども。

それで今回。ずっと前に購入していながら読むのを躊躇っていた『システム布石 三連星』(武宮正樹・誠文堂新光社)をぱらぱらと繰ってみた。読むのを躊躇っていたのは武宮氏が嫌いとかではなく、私の実力からして「三連星」とかなんとか、そういうシステムを採用するのは尚早だろうと思っているから。

今回も「三連星」を「マスターしよう」と思ってのことではなく、なんとなく今回の不調を打開しようとしてのこと。

効果覿面だった。何度も話しに出る「手談囲碁」にも連勝。ハッピーマンデーの対局でもまずまずの手ごたえを感じることができた。

弟子。

弟子は今日も連勝記録を伸ばしていたそうだ。先生方も「いやいや強いんじゃないですか」と。う〜む。このままではいけない(何が?)。取り敢えず自分の対局を終えて弟子の対局を見る。確かに打ち筋はかなり良くなっている様子。私が見ている対局も、しっかり守備に気をつければそのまま弟子の勝利となりそうだった。

そこで(と、いうわけでもないが)。対局者の方に「ここは三々に入ってみては?」なんてアドバイス(真剣な対局、というよりも「授業」なのでそういうのもアリなのだ)。まぁここに入っても弟子の勝利は揺らぎそうになかった。が、ちょっと弟子の守備が乱れた。「どうです、こちらからアテてみては?」。

それで弟子が負けの形となってしまった。すまん>弟子。別に負けさせようとしたわけじゃないんだ…(信じてくれ)。

まあとにもかくにも。弟子の棋力は間違いなくアップしている。授業では「カケツギ」と「空き三角」を習ったとのこと。こういうところから、「石の働き」をマスターしていくことになるのだろう。十九路盤も近いぞ!>弟子。十三路でも、今私と対局する時は二子置いているけれど、今日からは黒番(石は置かず、でもコミ出しなし)ということにしてみようか。

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2002年10月16日

「絶不調!」 −フリー対局−

弟子は絶好調だ。十三路盤で五連勝とのこと。ふ。でもまだ二子置かせて師匠の私が勝つ(でも私は囲碁教室での五連勝の経験はないように思う)。ちょっと成長の速度が速すぎるようなので、しばらくはインチキでも教えようか。「地よりも勢力だよ。三線の二間飛びで陣地確保なんてインケンなことをやってるんじゃない!」なんて…

一方の私。絶不調であった。ようやく勝てるようになってきた「手段対局」に連戦連敗。しかもときに40目差の惨敗を喫する。

実はこの不調。前にも経験がある。何度も書いているけれど、囲碁は「地」を競うゲーム。とは言っても三線のあたりでひたすら手堅くやっていると、いつの間にか中央が全部相手の地となり負けてしまう。そこで必要なのが「戦い」だ。

とりあえず。囲碁の面では「平和主義者」な私は、基本的に必要最小限の「戦い」しかしないで済むように、陰険に、もとい、じっくりと地を囲っていく。しかしそれで勝てない状況になると徐々に戦いも出て行かざるを得なくなる。そして「戦い」で勝てるようになると「地」と「戦い」のバランスを見失ってしまう。

結局水曜日のフリー対局にもこの絶不調のまま臨み1勝1敗。相手の三々に入った石が偶然に死んでしまって、そのおかげでなんとか勝ちを拾った。

さて、この地とバランス。前回棋院に通っているころも同じようなところで躓いた。今回はこの壁を突破できるかどうか。まぁ、これは「壁」というよりも、まさに囲碁の本質の部分なので突破しないことには「囲碁好き」を名乗る資格すら失ってしまいそうだけれども…

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2002年10月14日

「9歳に連敗」 −講義−

祝日にも関わらずハッピー・マンデー。本日の講義は石の「アテ」方。初心者向けの問題と、それからちょっと難しめの問題。こういう問題というのは、最初は全くわからない。次に「問題」として出されれば分かるようになってくるけれど、実戦で見極められるようになるまでは長い時間がかかる。残念ながら私も数多くの見落とし・筋間違いを犯し続けている。

で、講義の後は対局。私の対局話の前に弟子の対局。あまり観ることはできなかったのだが、今日は2連勝(十三路盤)だったとのこと。2局目の終わり間近を観たけれど、どうも相手の死に石を生きていると勘違いしている様子。打ち筋によっては、相手に生きられるのみならず、自分の石も大量に死んでしまうところ。どう打つのかじっと見守る。

ただ、戦いはそこで展開されることはなく、相手の地の中の三々に入り込んでいった。三々に目をつけるくらいの実力にはなったのだなぁ…(私は1ヶ月かかった(苦笑))。

弟子の三々入り右図、弟子は白番。三々に入った白を活かすのが嫌で黒が切ってきた。しかし、相手の石のない場所での三々入りは「必ず」生きることができる(手筋に間違えがなければ)。切るのは無謀だった。

で、図まで、一応弟子の打ち筋に間違いはない。しかしここで弟子は黒石を取ってしまった。ここの黒石はもう百パーセント死に。白は黒を取るのではなく、右から2列目、下から3行目あたりの場所に石を置いて、二眼を作りにいくべきだった。おかげで白は死ぬ形となってしまったが、なんとか相手のミスで二眼作ることができて生き。

この「百パーセント死んでいる」をマスターするのにも少々時間がかかると思うが、良い勉強になる碁だったのではないだろうか。そもそも三々に生きる道があると判断できる時点で同時期の私より上だ。「無駄な手」を打たず、他に回ることができるようになれば棋力は大きく伸びる(まぁ、それが難しいのだが)。

尚、相手の死に石を生きていると勘違いしていた件だが、ちょうど三々の争いが終わる頃に先生がやってきて、「あぁ、そこで終局ですね。その石、生きられなかったのは痛かったですね」とおっしゃった。この言葉で弟子の大怪我は未然に防止された。下手な手を打って自分の石を取られなくて良かったな>弟子。


さて、私の対局。9歳で棋歴一年の子供との対局。互い先(ハンディなし)で打ったが、1局目は惨敗。彼の打つ速度と見掛けの幼さにおろおろしてしまった(いや、言い訳じゃなくて…)。

二局目がほぼ双方の実力が出ただろうか。9歳の子の16目半勝ち(コミ5目半)。二局目はわりに良い感じに打てて、結構大きな地を囲えた。しかしそれで満足してしまって、相手が自陣に入ってくることを想定していなかった。そこであらされての敗北。うん、良い勉強になった(いや、負け惜しみじゃなくて…)。

それにしても。自分の四分の一の年齢の子に負けるのは面白い。もともと英国の「クラブ」システム(ラグビーやサッカーなどの)にあこがれる私。子供と大人が交じり合い、競技の力のみならず、いろんな面で相手に自分を認めてもらうというのは教育的見地(くさいかな)からも好ましいと思うのだ。

今日対局した子は、勝って驕らず対局相手を認める目を持つ良い子だった。そういう子を見ると嬉しくなる。


尚、ハッピーマンデーの後、会社に戻って弟子と一局。弟子は今日二連勝で私は二連敗。バランスを取っておかないと馬鹿にされるかと思ったので、「ハメ手」も使って徹底的にやっつけた(笑)。弟子よ、師に対する尊敬を忘れるでないぞ。
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2002年10月09日

「女の戦い!」 −フリー対局−

毎週水曜日は「フリー対局」。1月〜3月まで受講した際には、ハッピーマンデーよりワンランク上のクラスの人も参加して、講師の方が実力的に適当な組合せを決めて対局していた。今日、別のクラスの人がいたのかどうかはわからない。

で、戦い。3局打ってなんとか3局勝つことができたが、気付いたことがある。それは…

女性は戦いが好き!

ということ。

「切り」の例囲碁で言う「戦い」とは、囲まれかけた相手の地(陣地)に入り込んでいったり、相手の連絡の悪いところを切っていくことを言う。右図で印のついている黒石が、今白の連絡の弱いところを「切って」いったところ。

切ると相手の石の連絡を絶って攻撃ことができるが、自分の石も攻められやすくなる。だから私の場合は「無理かもな」と思うと切らない(これはこれで悪いこと。ちゃんと計算して切ることができるようにならないと強くなれない)。一方、少ないながらの個人的経験で言うと、女性には「切り」が好きな人が多い。「よし、この布石はうまくいったぞ」と思っていても、あちこちから入る切りに対処しているうち、いつの間にか地が足りなくなることがある。

講師の人にこの話をすると、「プロでも女性はよく切りを入れますよ」ということだったので、調べれば面白い理由が出てくるのかもしれない。

尚、弟子(会社の部下)の方は、今日から十三路盤に移ったそうだ。日ごろの特訓(?)の成果あって、トビやケイマはわりと打てるようになった様子。しかしナチュラルにぼけているせいか、相手にアテられても見逃すことが多く、せっかくの布石が機能しない。まあアタリなどは慣れてくればわかること。キレイな布石をマスターすれば、そのうちに強くなる、、、のではないかと思ってる。

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2002年10月07日

「復活の日」 −講義−

2001年12月。幸田露伴の「囲碁雑考」という文書を読み考えた。「俺、もしかすると、日本人として大事なことを忘れているんじゃなかろうか」。それで。碁を、始めた。

昔から熱しやすい性格は変わらない。即座に囲碁の本を十数冊買い込み、碁盤・碁石を購入し、パソコン用のフリーウェアをダウンロード。そしてすぐにフリーウェアでは物足りなくなり、シェアウェア、製品パッケージも購入。当時使っていた Palm にも囲碁ソフトを入れて電車の中でやっていた。

そんな中、日本棋院市ヶ谷会館(本院)で開催されている「ハッピーマンデー囲碁教室」という教室にも通い始めた。ちょうど「ヒカルの碁」ブームもあって、子供・女性を含め大盛況。3ヶ月を無事修了したのだった。

それから。いろいろあった。いろいろあって、ハッピーマンデー囲碁教室再入学。

初日。

「ヒカルの碁」以来の碁人気は衰えず、ハッピーマンデーは大盛況。なんとこの日は以前使っていた教室ではなく、大広間のようなところで開催された。ちらほらと見知った顔もいる。1月のコースからずっと通い続けている人もいるみたい。

講師も変わらずにハンス・ピーチ四段(ドイツ人)。私の通い始めた頃は長髪。いつの間にかボウズになり、今日会ったらパーマ頭になっていた。彼のファンだから講習に通い続けたいなんて言っていた女の子もいたな…。ちなみに彼もチャリンカー(自転車乗り)で、以前新宿を颯爽と走っている姿を見かけたこともある。

さて講義内容。前半講義で後半が生徒同士の対局というスタンスも変わらず。

講義の冒頭に、ある程度の経験を持つ人と、素人組に分ける。経験者は、受講者が以前残した棋譜を参考に、クイズ形式による検討。初心者クラスは九路盤を使って、基本ルール(「着手禁止点」など)のお勉強。そして講義の後に経験者は十九路、初心者は9路を使って対局開始。

私の対局組合せが決まるまで。部下の九路盤対決を見ていた。部下はハッピーマンデー講座に入る直前に私から1日だけの囲碁講義を受けている。相手の方は、本を読んだりはしていたけれど、人と打つのは初めてという方だったらしい。

見ていて。

面白い。

九路盤だから、さほど考える余地もないようなものだが、お互いに必死に知恵を絞る。そして知恵を絞りながらも自分のアタリ、相手のアタリを見逃してしまう。。。そう。囲碁は最初はそのようなゲーム。「気づくか気づかないか」がハラハラドキドキで面白い。トランプのババ抜きをしながら「ババを引いてくれ!」なんて思うときに似ている。

もちろん。囲碁の魅力はそこに留まらず、「気づく気づかない」を卒業した先にさらに面白さが見えてくる。私自身。九路盤で打ち始めた頃には、囲碁本来の魅力からは離れたところにいるのを知りながら、それでも面白く対局したものだった。

そうこうするうちに私の番。経験者ということで十九路を打つ。人と打つのはすごく久しぶりでやや緊張しつつ、とりあえずコミが出るか出ないかという結果だった。前日に布石に関する本をちらちら眺めていたこともあって、わりと綺麗な布石が打てたんじゃないかな。ただ、平和を愛する性格のせいで(?)、中盤が弱く大幅に陣地を奪われてしまった。来週までに中盤の戦い方の本でも読むとしよう。

講座が始まって。裏が十三路盤で表が九路盤になっている碁盤を買った。部下を相手に九路盤の「指導碁」なんて偉そうなことをして水曜日の対局に備えている。

ちなみに今日。囲碁を覚えて3日目の部下に九路盤で負けた。

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